ネパールの歴史
古代ネパール
55,000年前、最初の現生人類とも言えるホモサピエンスは、彼らが以前に進化を遂げていたアフリカからインド亜大陸に到着しました。南アジアで最も古いとされている現生人類の痕跡は、約3万年前にさかのぼります。ネパールに人類が定着したと思われる最古の考古学的証拠も、ほぼ同じ時期にあたります。
メアガルや現在のバロチスタンにある場所などで、紀元前6500年以降、農作業や動物の家畜化、恒久的な構造物の建設、農業余剰の貯蔵が行われていたことの証拠が現れました。これらは徐々にインダス文明へと発展し、南アジアで最初の都市文化を作り上げました。旧石器時代、中石器時代、新石器時代を起源とする先史時代の遺跡がダン地区のシワリクの丘で発見されています。現代ネパールの最も初期の住民とその周辺地域の人々は、インダスバレー文明から来た人々であると考えられています。インド亜大陸の青銅器時代(紀元前6300年ごろ)が始まる以前の歴史として,ドラヴィダの人々は、国境を越えてきたほかの部族―チベットビルマ人や、インドアーリヤ人などの部族―が来る前に、この地域に住んでいたという可能性があります。紀元前4000年までに、チベト・ビルマ人は、チベットからヒマラヤを直接横切るか、ミャンマーとインド北東部を経由するか、あるいはその両方の経路とも使うかして、ネパールに到達するようになりました。ネパールに最初に居住した人々のもう1つの可能性は、クスンダ人です。ホグスン(1847)によると、ネパールの最も初期の住民はおそらく原始オーストラロイドに起源を置くクスンダ人であろうとのことです。 ステラ クラミルシ(1964)は、カトマンズ峡谷の古代住民の大半を形成していたネワール人よりも以前にネパールにいたと思われる前―ドラビディアンとドラビディアンの人種の成り立ちについて言及しています。
後期ヴェーダ時代までに、様々なヒンズー教の経典の中にネパールのことは言及されておりました。アタルバヴェーダや、後のヴェーダ、アタルバシルシャ、ウパニシャッドなどです。ゴパル バンサは、「ネパール」という名前で知られる、中央ヒマラヤ王国の最初の支配者として様々なテキストで言及される、最古の王朝でした。ゴパラスはキラタスによって継承されていきましたが、16世紀にもわたってその強い支配を続けておりました。マハーバーラタによると、当時キラタ王はクルシェトラの戦いに参戦するため出かけたということです。南東地域においてジャナクプルダムは、繁栄を誇ったヴィデハまたはミティラと呼ばれた王国の首都であり、ガンジス川のほうにまで広がっていました。その街はジャナカ王とその娘シータが住み家としていた場所でもあります。
チャングナラヤン寺院はネパールで最も古い寺院の1つです。 この2階建てのパゴダは、1700 CEに再建されました。そこで披露されている木工作品は細部まで絶妙な細工が施されており、おそらくネパールで最高のものと思われます。チャングナラヤン寺院の前には、464 CEのものとされる石刻印があり、それは250 BCE、ルンビニのアショカ刻印以来、ネパールで最初の刻印となっています。
紀元前600年頃、ネパールの南部地域に小さな諸王国と複数の部族の連合が誕生してきました。これらの1つであるシャカ政府からひとりの王子が現れました。後に彼はあらゆる欲を制する修業生活を送るためにその地位を放棄し、仏教を設立し、ゴータマ仏(釈迦牟尼)として知られるようになりました(伝統的には紀元前563–483年)。
ネパールは、数百年をかけて精神性の高い土地、また憩いの地として確立されるようになりました。そしてチベットを経て東アジアに仏教を伝達するのに重要な役割を果たし、ヒンドゥー教や仏教の経典を保存する手助けとなってきました。紀元前250年までに、南部の地域はマウリヤ帝国の影響を受けるようになりました。皇帝アショカはルンビニへと巡礼し、ブッダの誕生の場所に柱を建立しました。その柱には
正しく記録されたネパールの歴史の出発点となった碑文が刻まれています。アショカ王はまた、カトマンズ峡谷を訪れ、そこに釈迦の訪問を記念する記念碑を建てました。4世紀までには、ネパールの大部分がグプタ帝国の影響下に入るようになりました。
カトマンズ峡谷では、キラタ王国の時はリチハビスによって東方へと押しこまれておりました。そしてリチハビス王朝は、紀元400 CE年に勢力を持つようになりました。リチハビスは数々の記念碑を建て、一連の碑文を残しました。当時のネパールの歴史は、それらからほぼすべてのものがまとめられるようになりました。
641チベット王国のソンツェン・ガンポはナレンドラディバを軍隊とともにリチハビに送りネパールを支配しました。ネパールの一部とリチハビは、後にチベット帝国の直接の影響下に入るようになりました。リチハビ王朝は8世紀後半に衰退し、その後タクリ統治が始まりました。タクリの王達は11世紀半ばまで国を統治しました。暗黒期と呼ばれることが多いこの時期についてはあまり知られていません。
中世ネパール
11世紀には、ネパール西部に強力なカース帝国が誕生しました。その帝国の領土は最も大きい時で、ネパール西部の大部分と、チベット西部の一部とインドのウッタラーカンド州を含んでいました。14世紀までに、帝国は22州ほどのゆるい連合を保つ諸国に分裂していきました。カースの人々の豊かな文化と言語は、ネパール中に、またその間に何世紀にもわたってインドシナまで広がっていきました。彼らの言語は後にネパール語と呼ばれ、ネパールとインド北東部の共通語となりました。
南東ネパールでは、シムランガルがミティラを 1100 CEに併合し、統一ティルハットは、200年以上強力な王国として存在し、一時期にはカトマンズまで抱合しました。イスラム教の統治が300年続いた後、ティルハットはマカワンプールのセンの支配下に置かれるようになりました。東部の丘では、キラト公国連合がカトマンズとベンガルの間の地域を統治していました。
パタンダルバール広場には多くの建物があり、ほとんどが寺院で、パゴダのスタイルで建てられています。シカラ建築で建てられたいくつかの寺院には、ネパールの木、石、金属の工芸品の最高峰が展示されています。パタンダルバール広場は、カトマンズバレーにある3つの宮殿広場の1つで、17世紀にマラスによって建設されました。ダルバール広場は、ネパールの芸術と建築における千年以上にわたる発展の集大成です。カトマンズ渓谷では、古くからネパールの歴史に登場してきたマラスが、14世紀半ばまでにカトマンズとパタンに定着するようになりました。マラスは最初にティルハトの領主の下で谷を支配していましたが、ティルハットが衰退するにつれ14世紀後半までに独立統治を確立しました。14世紀後半、ジャヤスティティ、マラは、カースト制を基本原理とした広範な社会経済改革を導入しました。先住民の非アーリア人の仏教徒人口を、ヒンズー教の4つのヴァルナ体系をモデルにしたカーストに分割することによって、彼はネパール中のすべての公国における先住民の非ヒンズー部族集団をサンスクリット化とヒンドゥー化をするための、影響力のあるかたちを提供したのです。15世紀の半ばまでに、カトマンズは強力な帝国になり、カークパトリックによれば、チベットのディガルキまたはシガツェからインドのティルハットとガヤにまで広がりました。 15世紀後半、マラ王子は王国を4つに分けました。カトマンズ、パタン、バクタプルの谷間と東のバネパです。これらの兄弟王国の間での名声のための競争は、ネパール中心部での芸術と建築の繁栄を見ることになります。それらが有名なカトマンズ、パタン、バクタプルのダルバール広場にある建築物などです; 彼らの分裂と不信感は18世紀後半に彼らの転落をもたらし、最終的にはネパールを統一近代国家へと導いていきました。
13世紀初頭にカトマンズがうけた破壊的な略奪期を除けば、ネパールは11世紀に始まったインドのイスラム教徒の侵略からほとんど影響を受けていませんでした。しかし、ムガール帝国時代には、インドからネパールへのカースト上部層のヒンドゥー教徒の流入が見られました。彼らはすぐにカースの人々と混ざり合い、16世紀までに、ネパールには22のバイシ州、西中央ネパールの東には24のチャウビシ州を含む約50のラージプト支配の公国がありました。インドの文化が何世紀にもわたるムガール帝国の影響を受け、その後イギリスの統治が続いたことで、ネパールは純粋なヒンドゥー教の真の要塞であるという見解が浮上しました。バイシ州の1つであるゴルカは、ネパールの丘で最初のヒンドゥー教に基づく法律を成文化した後、正義の評判を持つ影響力のある野心的な王国として台頭しました。
統合・拡張・統合
18世紀半ば、ゴルカ王であるプリスヴィナラヤンシャーが、現在のネパールになるものをまとめようと試みました。彼は国境を接する山岳王国の国々との中立性を確保することによってその仕事を開始しました。いくつかの流血の戦いと包囲攻撃、特にキルティプルの戦いの後に、彼は1769年にカトマンズ峡谷を支配するようになりました。ゴルカ支配は、北インド領土にあたる西部のクマオン王国とガルワル王国から、東部のシッキムにかけて支配下に置いたとき、その支配が最大に達しました。
山々の峠とチベットの奥にあるティンリ渓谷の支配をめぐるチベットとの紛争は、中国の清皇帝に中国ネパール戦争を開始させ、ネパールは北方にある自分たちの国境を後退するようになりました。ネパールと国境を接する州の支配をめぐるネパール王国と東インド会社との対立は、やがて英・ネパール戦争(1815–16)を引き起こすようになりました。当初、イギリス人はネパール人を過小評価しており、彼らが必要とするよりも多くの軍事資源を投入するまでは敗北していました。このことによって、グルカの兵士たちが荒々しく冷酷であるという評判が始まりました。戦争はネパールがその時までに占領した土地を割譲するという内容のスガウリ条約で終わりました。
王室内の派閥主義は不安定な時期をもたらしました。1846年、在位中の女王が、急激に勢力を伸ばしていた軍事指導者であるユングバハドゥールクンワールを倒そうと計画していた陰謀が発覚されました。これはコットの大虐殺につながりました。女王に忠実な軍人達と軍の上官たちとの間の武力衝突は、全国の数百人の王子と首長の処刑につながりました。ビルナルシンクンワールは勝利を収め、ラナ王朝を設立し、ユングバハドゥールラナとして知られるようになりました。王は肩書ばかりの存在となり、首相の職は強力で世襲制になりました。ラナ王朝は堅固に親イギリス的であり、1857年のインドの反乱の際にはイギリスを助けました(そして後の二つの世界大戦でも)。1860年、テライ西部地域の一部は、反乱の際にインドのイギリス支配を維持するための軍事的支援(ナヤムルクとして知られる、新しい国)のため、イギリスから友好的な表意としてネパールに贈られました。1923年、イギリスとネパールは、 1816年のスガウリ条約に優先する友好協定に正式に署名しました。ヒンズー教の教えであるサティは、未亡人が夫の葬儀火葬の際に火に身を投じるというものですが、1919年に禁止されました。また奴隷制度が正式に1924年に廃止されました。ラナ政権の規則は、専制政治、放蕩、経済的搾取や宗教的迫害という観点から注目されています。
1950年以降
1940年代後半、ネパールに新たに出現した民主化運動と政党達はラナ独裁政治を批判しました。ネパールの活動家が参加したインド独立運動の成功に続き、インドの支援とトリブバン王の協力を得て、ネパール議会はラナ政権の崩壊に成功し、議会制民主主義を樹立しました。王と政府の間の10年間の権力争いの後、マヘンドラ王(1955〜1972在位)は1960年に民主主義の実験トリブバン王の経験を破棄し、「政党のない」パンチャヤット・システムがネパールを統治するために作られました。政党は禁止され、政治家は投獄または追放されました。
2008年7月23日、数十年にわたる民主主義との闘いの末ついに君主制が廃止された後、ラムバランヤダブは、ネパール共和国の初代大統領になりました。
パンチャヤト統治は国を近代化し、改革を導入し、インフラを発展させましたが、自由を削減し、厳しい検閲を課しました。1990年、人民運動はビレンドラ国王(1972年~2001年在位)に憲法改正を受け入れ、複数政党制民主主義を樹立することを強いました。
1996年、毛沢東党は王立議会制度を人民共和国に置き換えるための暴力的な企てを開始しました。これは長いネパール内戦を引き起こし、16,000人以上の死者を出しました。王宮での大虐殺事件で王と皇太子の両方が死亡したことで、ビレンドラ王の兄弟ギャネンドラは2001年に王位を継承し、その後、毛沢東党の暴動を鎮圧することを目的とした完全な執行権力を手に入れました。 毛沢東党は、2006年の平和的な民主主義革命の成功を受けて、主流の政治に加わりました。ネパールは政教分離の国となり、2008年5月28日、連邦共和国宣言をし、世界で唯一のヒンドゥー教王国という名誉の名に終止符を打ちました。2回の憲法制定会議選挙を見た不安定で内部の紛争が続いた10年間の後、2015年9月20日に新しい憲法が公布され、ネパールは7つの州に分かれた連邦民主共和国になりました。